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取り扱い商品

医薬品関連

配置薬について

配置薬の歴史と展望

配置薬販売業の歴史

配置薬、あるいは置き薬というシステムは、今から300年以上前に誕生し、「使った分だけ後払い」というお客様との信頼関係で成り立つ方法として始まりました。

1.富山の薬売りが起源

越中富山の立山は、古くから立山修験と呼ばれる山岳信仰の対象でした。毎年夏になると日本各地の山嶽信仰信者は、越中立山に集まってきました。その季節が終ると立山山麓の芦峅寺(あしくらじ)、岩峅寺(いわくらじ)の立山衆徒たちは、日本各地の信者をたずねて、魔よけのお札や、また付近に産するヨモギ、キハダでつくった「よもぎねり」「三効草」「熊胆(ゆうたん)」などの薬、それに死者に着せる経衣(きょうかたびら)を良家の信者宅に預け、1年後に使われただけの代金を集める、という方法で布教活動の資金を得ていました。これを「配札檀那廻り(はいさつだんなまわり)」と言いましたが、慶長(西暦1596-1615)のころには、既に三河・尾張・美濃などでこうした販売法を行なっていました。この習慣がその後の富山売薬の起源になったとも考えられています。

立山この「配札檀那廻り」が富山売薬「反魂丹」普及の素地になった、との説もあります。富山藩二代目藩主前田正甫(まえだまさとし)は、薬に興味を持ち、自分で製薬もしていました。特に、岡山藩医の万代常閑(まんだいじょうかん)を招いて、万代常閑の先祖が堺浦に漂着した唐人からその秘法を学びました。

参勤交代で、正甫公が江戸城にいるとき、福島県の岩代三春という殿様が突然腹痛に襲われました。たまたまそこに居合わせた正甫公が持っていた印籠から「反魂丹(はんこんたん)」を取り出し飲ませたところ、たちどころに良くなったという出来事がありました。この「大名腹痛事件」を発端に、富山の薬が全国に知られるようになったと言います。

正甫公は富山城下の薬種商・松井屋源右衛門に薬を調製させ、領地から出て全国どこででも商売ができる「他領商売勝手」を発布。八重崎屋源六に依頼して諸国を行商させました。源六は、「用を先に利を後にせよ」という正甫公の精神に従い、良家の子弟の中から身体強健、品行方正な者を選び、各地の大庄屋を巡って薬を配置させました。そして、毎年周期的に巡回して未使用の残品を引き取り、新品と置き換え、服用した薬に対してのみ謝礼金を受け取ることにしました。

2.その後の発達

江戸時代に始まり、多くの販売員の努力によって全国に確かな地位を築いていった「置き薬」ですが、その歴史は苦難の連続でした。最初の大きな苦難は明治維新。中央集権体制をめざす明治政府の医薬行政は、西洋医学に基づく製薬の発展を期待し、漢方医学を根拠として長い間信用を勝ち取ってきた「置き薬」を滅亡の危機に立たせました。

昭和22年、戦時中の売薬統制が解かれ、自由に薬を製造して配置できるようになり、「置き薬」の製造や販売の組織づくりが行われましたが、戦後のインフレの影響で経営は苦境にたたされました。昭和30年代に入ると、薬業界全体の生産が活発になり著しい伸びを示したが、昭和36年から始まった国民皆保険制の実施で、国民はちょっとした病気でも医者にかかるようになり、このため国民医療費の増大という新たな財政上の問題も浮上してきました。こうした状況の中、薬や医学の情報、知識が豊富な現代人の健康管理に、「置き薬」の新たな役割が注目されるようになりました。

3.現在の新しい役割

ハイテクの時代となり、一方通行のコミュニケーションで、インターネットに代表されるマルチメディアとの接触はあっても、人と人が直接ふれあうことは年々希薄になっています。また町の薬局が郊外の薬の大型量販店に取って代わられる時代、とっさに必要な薬の入手に手間と時間がかかり、コンビニの慣れない薬にも不安を感じる、などなど薬の入手に困難と不安が大きくなってきているのは否めません。そんな時に安心して、営業員の顔を浮かべながら、使い慣れた中京医薬品の赤い箱から必要な薬を取り出していただきます。

さらに、医療費の高騰、薬品の副作用、日本の医のシステムの不備もあって、軽い病気は自分で治すというセルフメディケーション(自己治療)の考えが徐々に浸透してきました。そうした社会の変化にこの業界の新たな役割が期待されます。

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